かわら版 No.1338 『11月15日』
2022/11/21新潟市の中学に通っていた横田めぐみさん(当時13歳)が北朝鮮に拉致されたのは、45年前の「11月15日」でした。父の滋さんは2年前に亡くなり、母早紀江さんも86歳になられました。依然として消息がわからず、帰国も実現できない現状に胸が締めつけられます。
当時の小泉純一郎総理と金正日総書記による初の日朝首脳会談が行われたのは、2002年でした。北朝鮮は日本人拉致の事実を認め、拉致被害者5人が帰国しましたが、その後20年間も進展がありません。
おそらく拉致問題を巡り秘密交渉が行われたのは、10年前の野田政権の時が最後だと思います。2011年12月に金正恩体制になってすぐ、「第2次大戦当時に北朝鮮に残された日本人遺骨の問題なら話し合える」と、シグナルが送られてきました。以降、第三国での日朝間秘密交渉が始まりました。
私は秘密交渉に臨むにあたり、日朝国交正常化のためには拉致問題の解決が不可欠だと、強く主張するように指示しました。協議を重ねていくうちに、北朝鮮も遺骨の問題にとどまらず、拉致被害者の再調査に応じる姿勢を見せるようになりました。
そして、2012年「11月15日」、モンゴルのウランバートルでついに日朝政府間協議が開催されました。日本側代表は外務省の杉山晋輔アジア大洋州局長、北朝鮮側代表は宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使でした。
局長級で日朝間の様々な問題を協議する形式でしたが、秘密協議を通じて拉致問題の再調査などをほぼ合意していました。奇しくも横田めぐみさんが拉致された日に、拉致問題の再調査の道筋をつけることができ、しみじみと感じ入るものがありました。
翌12月に第2回日朝政府間協議を開くことになりました。この協議で日本人拉致被害者の再調査など、8項目について合意する段取りになっていました。しかし、北朝鮮は12月1日、長距離弾道ミサイルの発射を予告(12月12日に発射)し、幻の合意になってしまいました。
一度は消えたかに見えた日朝間の合意は、2014年5月、第2次安倍政権の下で、「ストックホルム合意」として達成されました。野田政権下では8項目だったものが、安倍政権下では7項目になっていましたが、中身は全く同じものでした。
ところが、2016年2月、北朝鮮が核実験や弾道ミサイルの発射を強行したことから、日本は新たな独自制裁を決定。北朝鮮は再調査を中止し、最終的に決裂しました。
丁寧に協議を積み重ねて合意に至っても、ミサイル1発でご破算にしてしまう北朝鮮。私も安倍元総理も苦汁を飲まされました。はらわたが煮えくり返る思いですが、拉致被害者のご家族の高齢化を考えると一刻の猶予も許されません。
国際社会と結束して北による核、ミサイル、そして、最重要課題である拉致問題の包括的かつ早急な解決を図るよう、政府に強く求めます。