かわら版 No.1160 『敬天愛人』
2018/12/17国会議員、ベンチャー社長、文化人などが集まり、2003年8月、平成幕末世直し劇が開催されました。今こそ西郷隆盛や大久保利通のような政治家よ出て来いという企画で、「敬天愛人!隆盛の如く」という劇でした。主役の西郷は何と私、大久保は自民党の故中川昭一さん。会場は明治座という本格的な舞台でしたが、役者は大根ばかりの素人芝居でした。
そんな汗だくの体験があるものですから、維新の英傑の中で最も親近感のある人物は西郷隆盛です。16日の放送が最終回だったNHK大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)も、ほぼ毎回(ビデオ録画も含めて)視聴しました。
西郷どんが好んで使い、よく揮毫した言葉が「敬天愛人」。天をおそれ敬い、人をいつくしみ愛することを意味します。西郷はこの言葉を体現するような人物だったといえるでしょう。そして、命も要らず、名も要らず、位も要らずという私心のない人物でした。この無私の境地に達するにはどうしたらいいのでしょうか。
船橋の地元事務所の私の執務室には、細川護熙元総理からいただいた「無私」と書かれた色紙が飾られています。決断すべき時が迫りながら迷いやためらいがあると、ふと目に入る2文字です。でも、私を無くすという境地には、なかなか辿り着きません。
2011年8月、民主党代表選を間近に控え、立候補を決意していた私は京都に向かいました。当選すれば菅直人代表に続いて内閣総理大臣に就任する大勝負の直前でした。曇りのない心で堂々と天下国家を考え、論ずるために座禅を組もうと思い立ったからです。
細川元総理にご手配とご同行をお願いし、臨済宗建仁寺をお訪ねしました。細川元総理には「お帰りなさい」と声が掛かっていましたので、ホームグランドのような禅寺なのでしょう。心身共にリラックスされているご様子でした。私は座った途端、票読みや人事など煩悩ばかりが去来し、無になるどころではありませんでした。
中途半端な座禅体験でしたが、無私の人・西郷のレベルには程遠くても、時には私心がないか邪心がないかを自己観照する必要性を学ぶことができました。
トップがエゴをむき出しにしたら、組織は危うくなります。国のトップのエゴは、権力の私物化になります。会社のトップのエゴは、日産のカルロス・ゴーンのようになります。総理総裁にしろ、野党の代表にしろ、社長にしろ、リーダーに要求されるのは「敬天愛人」「無私の心」でしょう。
年末年始、日本の現状と未来を、そして、自分の果たすべき使命を、静かに沈思黙考したいと思います。