詳細 | かわら版 | 衆議院議員 野田 よしひこ

かわら版 No.1237 『父』

2020/09/07

  9月3日、父義信が亡くなりました。脳梗塞で倒れて以来十数年にわたる闘病生活でしたが、ついに力尽きました。新型コロナウイルス感染予防のため、家族による面会も制限がありました。葬儀も密を避けるため、近親者のみで執り行うこととさせていただきました。制約だらけの人生のフィナーレでしたが、他人に迷惑をかけることを嫌った父でしたから、理解してくれるだろうと思います。


  父は1930(昭和5)年、富山県の八尾町(現富山市)の農家の6人兄弟の末っ子として生まれました。満蒙開拓義勇軍に応募して九州まで移動したところで終戦を迎えました。大陸に渡っていたら、その後どんな運命をたどったでしょうか。


  これからお国のために挺身しようとしていたところで終戦。何かやり残したという感覚があったのでしょう。高校卒業後、自衛隊の前身、警察予備隊の第1期生に応募します。そして、幹部自衛官ではなかったので習志野駐屯地に長年勤務することになります。


  三山の七年祭りでぽっちゃりした女性と出会います(今風にいえばナンパ)。その女性こそ船橋の農家の10人きょうだいの末娘、亡き母信子です。この両親の下、私と弟たけひこは生まれ、育ちました。


  父は、俳句、川柳、詩吟、尺八など多趣味な人でした。書道も5段。歴代総理で最も悪筆な私は、父の文化・芸術的な素養は全く引き継いでいません。でも、人生で最も大事なことを学ぶことができました。


  薬円台小学校に通っていたころのエピソードです。成績がガタ落ちしたためゲンコツを食らうかと、恐る恐る通知表を父に手渡しました。すると、予想に反してニッコリと笑い、頭をなでてくれました。日常生活の講評欄に「野田君は正直の上にバカがつく」と、担任の先生が書いていたからです。


  父がテストの点数や偏差値といった数字に一喜一憂するのではなく、数字で表せない大切なものを重視していることがよくわかりました。厳格な自衛官のせがれにとって、もっとも忘れがたい教訓です。


  キツネとタヌキの化かし合いのような政界で仕事をするようになり、正直だけでは通用しないこと、少なくともバカが付いては致命傷になることを思い知りました。約束をしたことを果たせず、結果的に嘘をつくことになったこともあります。しかし、批判を浴びても逆風の中でも、毎朝街頭に立ち続け説明責任は果たし続けてきました。


  臭いものに蓋をしたり、説明責任から逃げ続けることが当たり前になってしまった時代だからこそ、愚直に説明責任を果たす誠実さが求められていると思います。父の逝去は、自分の青臭い原点を思い起こさせてくれました。25年前に先に逝った母と共に、天上から2人で見守ってくれることになります。両親に恥じない活動をしていく決意です。


  

活動報告一覧へ戻る
HOMEへ戻るpagetop